僕はネットに自分の「意見」を書き始めたのが、大学1年生の6月頃だったと思います。すでに2年以上ブログやnote、Twitterに自分の意見を書き続けています。
なぜブログやnoteに自分の意見を書くか?
僕は大学入学早々に、「あ、俺ぼっちになるな」と悟り、実際大学構内では一人で行動してきました。
この考えに至るまでが早すぎたかもしれませんが、そこで悩みや葛藤を毎日と言っていいほど経験しました。
最初はスマホのメモ帳を使って、1日に感じたことを書きなぐっていました。改行なんぞは考えずに、とりあえずメモ帳を開いたときに空白がなくなるくらいには書いてました。
最初は無我夢中に書いているのですが、ふと我に返った時に、「おぉ…この文章イタくないか?」となることもありましたが、それが今の自分だと理解し毎日続けていました。今ある自分に冷めることはあまり好きではないからです。
2年以上ブログを続けていた自分が思う事
大学に進学するまで自分の意見を客観的に見ようとしたり、底にある思いを書き出したり、言ったりすることがなかったので、自分の意見をブログに書くことに抵抗がありました。
だけど、蓋を開けてみれば自分にプラスになることが多かったです。自分の意見を書いていると、一般の人の文章を目にする回数が多くなりました。それを読んでみると、皆色んな考え方があって、面白く、触れたことのない感情に溢れていました。
だから、人と会話する時に人の一面だけを観なくなって、この人は一体どんな考え方をしているのかなと、人にも興味が湧いてきました。
このことが優しくなるとイコールとは思っていませんが、それに近いものになれたような気もします。

最初にまとめのようなものを書くのはどうかと思ったけれど、一番伝えたい部分だったので、導入部分に書かせてもらったぜ!

自分の意見をネット書いて良かったこと
何に悩んでいるかを整理できる
僕もそうだったのですが、一個のことに悩むと連鎖していって複数に悩みが分かれてしまいます。そうなると自分が何に一番悩んでいるかすら忘れてしまいます。
悩みの根源は1つか2つなのです。それを解決または、自分の中で納得のいく形で落とし込むことが大切です。それには、悩んだらすぐにメモすることが大切だと思います。僕のようにスマホのメモに書いてもいいし、字を実際に書いてもいい。綺麗に書く必要はないと思っています。
実際に悩みをまとめてみたら、凄く大きな悩みだったのに小さな悩みだったかもしれません。しかし、他人の悩みが自分からしたら大したことのない悩みだと思ったりもしましたが、年を重ねるごとに悩みはその人にとって大きさが違う事だと気付きました。
僕は実際にこの年で髪の毛が後退してきたという悩みがあります。これは本当の悩みなのです。実際この悩みが大きすぎて、外に出ることすら抵抗を覚えて、必要のない時以外は外には出ませんでした(2019年の時です)。
また髪の毛を切りに行くのにも抵抗があり、前髪がばっさぁ~と目にかかってました。
このままでは生活に支障が出ると思い、この悩みをブログで書きました。まだ悩みは無くなってはいませんが、小さくすることは出来ました。どうすれば小さくできるかなども目に見えて分かりますし、悩んでいるだけだと、解決できなくるところまで深く悩んでしまいます。
☞なので、悩みを書くことはとても大事だということに至ります。
☟おさらい
・悩みの連鎖を断ち切るために書く
・考えすぎはよくない
・悩みの根源は1つか2つだ
書きたいことに溢れていたと気付いた
僕ははてなブログ✍で最初の記事を書いたのですが、その時のタイトルが
「何もできない人間」でした(笑)。
この頃は本当に劣等感に苛まれていて、何をするにも自分は無価値の人間だと思っていました。今ではこんな風には思いませんが、この当時は病んでいましたね。。。
今見返すと恥ずかしいのか?と聞かれるとそうは思いません。まだ数年しか経っていなからなのか、まだ同じ思考を少しでも持ち合わせているからなのかは、わかりません。
たぶん、僕は何歳になっても新しい気付きがあって、自分の知らない考え方や感情に触れる機会がこの先必ずあると思っています。その時はそう感じた。それだけのことなのです。
その感じたことを人に伝えることが人間として大切な事なのかもしれませんが、僕は照れくさくて、「今日~な事があって、こう思ったんだよね」と人に言えません。
もちろん友達も少ないということもあると思いますが。。。
だから文章を、エッセイを書くのです。新しい気付きや感じたことを常に頭の中だけに留めておいてもパンパンになってしまいます。たまに考え事をして眠れなくなる時は、深夜にパソコンを付けて、せっせと考えを書いています。もちろん結論が出ていなくても、まだ中途半端な段階だったとしても。
考え方に何が正解とかはないと思っています。自分が文系の人なのかもしれませんが、答えっていうのは何を考えていても、出てこないことが多いです。ただ、考え事を文字に起こす。不特定多数・少数の人に見てもらうというのはなんとなく不思議な気持ちなります。
僕は今書きたいことに溢れています。それは日常に新しい気付きや考え方に触れている証拠だと思っています。もし、書きたいことがないなぁ~と思う時は、書きたいことが増えるように行動しようと思っています(もしかしたら、書きたいことがない方が人生いいのかもしれない)。
☟おさらい
・その歳に感じたことを忘れないように
・新しいことに触れているという証拠
・頭がパンパンにならないように
書きたいことに溢れていた芸人さん オードリー若林正恭

僕が影響を受けた芸人さんの一人で、とても面白い方です。30代から社会人となった大人の葛藤、新しい驚きなどが書かれています。
ラジオも毎週聞いてます。10年でとどまらず、オードリーの2人ができるところまで、ずっと聞いていたいです。
書くことが好きだと思えた
小学生・中学生・高校生の時、日記や学校の記録手帳などに文字をほとんど書きませんでした。文字を書くのがそこまで好きではなかったし、ただただめんどくさいなと思っていました。
1週間の感想は1行程度だったと思う。担任の先生からしたら楽でいいのだろうか?
当時からしたら、今こうして長い文章を書くことが考えられないことです。成長するとはこのことだろう。僕は大学生になるまで、読書をしてこなかったので、難しい言葉はそんなに知らなし、読者にブログを見やすく、分かりやすく書くのなんて、まだまだだと思います。
けれど、この記事が自分が今できる最高のものなのだ。文章を書くというのにも成長があることが知れてまず嬉しく思いました。
また自分が文章を書くことによって、人の文章にも興味が湧いてきて、読書を始めたし一般の人の文章も読んでいる。
書くことが好きになって視野が、世界が広がったことがなにより良かったことだ

読書のきっかけが自分ってナルシストだなぁ
☟おさらい
・世界が広がった
・成長が感じられた

番外編
数字を気にしないようにする
ネット社会の今どうしても「数字」というものが恐ろしく付き纏う。SNSのフォロワー、Instagramのいいね!の数、ブログのアクセス数、ブログの収益。数字というものは他人と容易に比較することができて、かつ僕は妬みという感情が湧いてきてしまう。
この事実は今後変えられないものだし、数字で見てしまうこともあると思う。だけど、自分の考え事や悩み事をまとめたものに対して、数字を取り入れてしまうと、意図とは全く異なるものになってしまう。自分の考え・悩みをまとめたいだけなのに、数字が「伸びないなぁ」なんて考えるのは支離滅裂だ。
なので、もし自分の考えをまとめたいだけ、書きなぐりたいだけの場合は、数字を全く気にしない居場所(サイト)を見つけたほうが良いかもしれない。というより見つけるべきと断言できる。
僕の場合はnoteが正しくそうで、人に見られることを気にしていない(とは確実には言えないが…)。ほんとは数字で人を測ることなんてなくなる世界になればいいのにとも思っている。

今ある自分を受容すること
「自分に厳しく、人に優しく」という言葉があるが、僕は「自分を卑下して、人を持ち上げて」と意味を履き違えていた。謙虚というのは行き過ぎると卑下に繋がってしまう。
僕がしていた考え方は美徳でもなんでもなく、一番優しさから離れたものだった。僕は自分に優しくできる人は他人にも優しいなと感じることがある。しかし、「自分に優しく」と「自分に甘く」では意味が違ってくる。僕はまだこの2つの違いをしっかりと説明することができないし、理解もできていない。線引きが凄く難しい。
ただ、自分を受け入れるということはしてあげたほうがいいかなと思っている。ダメな自分もいるし、色んな自分がいると受け入れることがまず大事だと思った。そこからどうすればいいか考えればいい。
人生は長い
まとめ
えぇ~、最後はエッセイっぽくなってしまいましたが、文章に起こすことの面白さ、大切さが1ミリでも伝わればいいと思っています。
では、またいつか👋
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